シルクの歴史

更新日:2020年12月3日

日本の絹歴史街道を見よう

十二単衣

今から5000年もの前、中国で初めて絹が発見され今日まで利用されています。

では日本ではいつ頃から絹が利用され始めたのでしょうか?そのルーツを探って見ます。

弥生時代

紀元前5世紀から紀元後の3世紀の時代です。

弥生時代のシメージ

弥生時代の前期、中国大陸や朝鮮半島から新地開拓を求めて渡来人がやってきました。

その時、初めて稲作や絹織物が持ち込まれ、後の日本の生活や文化、そして産業に大きな影響を与えることになったのです。

日本で初めて絹にふれたのが弥生時代の前期(紀元前300年~200年頃)ということになります。

中国ではこの頃から、絹織物による他国との貿易が盛んに行われるようになっていますから、貿易振興として渡来人と共に持ち込まれ可能性が高いと思われます。

3世紀の中国で作られた歴史書「三国志」の一部に魏志倭人伝 (ぎしわじんでん)という項があり倭人(日本)に関する記事が残されています。

邪馬台国のリーダーである卑弥呼王女が中国の皇帝に倭錦(やまとにしき)という絹織物を献上している記事があったり

「禾稲(かとう)・紵麻(ちょま)を種え、蚕桑(さんそう)・緝績(しゅうせき)して細紵(さいちょ)、ケン緜(けんめん)を出だす」

という記録があります。

「稲や麻を植えて作り、桑で蚕を飼って糸を紡ぎ絹織を作り出す」という意味であり、史書からも3世紀ごろには養蚕や絹織物が日本でも定着していたことがうかがえます。

また弥生時代の古墳から平絹が見つかっていることも証明になります。

奈良時代~平安時代

710年から始まった奈良時代には、東北・北海道を除く全国各地に養蚕業が伝わりました。

出来上がった生糸は全て税として強いられ朝廷に納められていました。

奈良時代以前は、宮廷用の絹は大陸から輸入されていましたが、このころから国産の絹が増え徐々に日本独自の文化が芽生え始める転換期でもあります。

794年から始まった平安時代になると、日本の文化史は新時代に入ります。

朝廷直轄の織部司(おりべのつかさ)を設置し、高級織物の生産に従事しました。

宮廷貴族の衣裳服飾は、中国風一辺倒だったのが日本風の創意を重んじるようになってきました。

この時に創作されたのが、男子では束帯(そくたい)と呼ばれるもので天皇や公家が着る正式な服装であったり女子では十二単衣です。

平安時代の十二単

十二単衣はとても薄く、これらの薄物は中国との交易品にもなりました。

文様も日本的なデザインが創作されるようになります。

波、葦、水鳥、舟、筏(いかだ)、橋、蛇、篭、流水に浸される車輪などの文様が生まれたのです。

鎌倉時代

400年続いた平安時代が終わり、貴族に代わって武家を中心とする政治が1192年から始まります。

武家社会により質実剛健の思想により、服飾も変化していきます。

華やかなものから飾り気のないものを尊び、絹織においても高級な物は不向きの風潮になっていきます。

その影響から京の高級織物業は徐々に衰退し、専門職人は京都を去って地方へと分散していきました。

このことが地方の染色や織物の技術が向上し、後年の伊勢、越前、丹波、丹後など地方色ある特産の絹織物が生まれる一因になったとされています。

室町時代~安土桃山時代

質実さへの反動もあって、再び華やかさを尊ぶ風潮がやってきます。

武家文化と公家文化が混じり合う時代になったのです。

この頃、中国より糸に撚りをかける「撚糸(ねんし)」の技術が伝わりました。

繭から取れる生糸は、そのままだと非常に細くバラバラになりやすいで生糸の束に軽く撚りをかける技法です。

鎌倉時代から衰退していた京都の高級絹織物は、応仁の乱以後、地方に散らばっていた工人(たくみ)が京都の西陣に集まり、西陣織が生まれました。

ちりめん

その後は東西へと波及し、岐阜ちりめん、長浜ちりめん、丹後ちりめんと特色のある絹織物が誕生していきます。

豊臣秀吉が天下を統一した時代になると、桃山風と言われる豪華絢爛な絹衣装が織られるようになり、肌着だった小袖が贅をこらした小袖飾りなどのような実用性のない絹織物も多くなりました。

江戸時代

徳川幕府は、上級武士以外は絹衣装の着用を厳禁としています。

また安土桃山時代のような派手さはありません。

その一方で西陣絹産業については手厚い保護をしています。

そんな状況でも生糸の輸入は増え続け、その支払は金(小判)でしたが次第に財政が苦しくなっていきました。

幕府は中国からの輸入を減らす為に養蚕を奨励することになります。

一方、各藩でも財政立て直しの一環として西陣より技術を学びながら養蚕に力を注ぎました。

金沢の加賀友禅、山形の米沢織、茨城の結城紬、仙台の仙台平など日本独自の織物が誕生しました。

江戸時代の後期には養蚕技術の研究が盛んになり、上垣守国の書いた「養蚕秘録」は3000部を超えるベストセラーになり各地へ養蚕業が浸透していきました。

明治時代~昭和時代

明治の新政府は、欧米列強の植民地化を逃れるために近代化を進めていきます。

その為には外貨が必要となり、群馬県に最新機械をフランスから導入して官立富岡製糸場を完成させ生産性を向上させました。

この時、「製糸工場で働く女工さんの手が白くて綺麗になっている」という話しは有名で、これがきっかでシルクに秘められた美容効果が注目されはじめ、後々のシルクを利用したスキンケア化粧品へとつながっていきます。

富岡製糸場

日本で製糸される生糸は、アメリカを中心に輸出されるようになり、経済発展に貢献していったのです。

また身分制が改革され、だれでも絹織物が着用できるようになり、国内の市場にも生糸も出回るようになります。

明治になるとカイコの品種改良にますます研究が注がれます。

明治5年から明治20年の間、収繭量は40%の増加、生糸の生産量も40%の増加、繭糸の長さにおいては20%の増という著しい改良の実績を残しました。

品種改良は昭和に入っても続けられ、江戸時代の繭と昭和時代の繭を比較してみると、繭層の重さはなんと3倍(0.2gが0.6gへ)になっており、昭和時代にはカイコの先進国は中国ではなく日本になっていったのです。

世界二次大戦後の復興をへて、1950年(昭和30年代)後半の養蚕業は最盛期をむかえることになり、繭や絹の生産量は世界一位となり、1970年後半まで一位の座を守ったのです。

1980年代になると急速に養蚕産業は衰退し、90年以降は壊滅的な状況になり現在に至ってます。

しかしながら、日本で品種改良された蚕、生糸の質、シルクの研究は現在もなお最も優秀であり、その技術は外国でも引き継がれ逆輸入のような形になって生糸(絹)や製品が入ってきています。

皇室では養蚕が継承

明治天皇の皇后さまが養蚕業奨励のために始められた伝統行事が、上皇后の美智子さまから皇后雅子さまへ継承されることになりました。

2018年5月21日付け
日本経済新聞より

皇室では3種類の蚕が飼われており、その中に「小石丸」という純国産の蚕があります。

生産性が少ないことから昭和の終わりには廃棄寸前までなりましたが、美智子さまがもう少し育てたいとの意思で「小石丸」の養蚕が続けられました。

そしてこの蚕からとれる絹糸が、正倉院の古代袋(8世紀のもの)の復元に必要なものとわかり、日本文化の継承と保存に大きな役割をはたしたのです。

現在では希少ブランドとして全国各地で飼育されるようになっています。


監修者:30年以上のベテラン化粧品営業師
新井貴信